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Wellcome to MAYAKOV world.

Mayakoveiji俳句映画

 

 

『 ターコイズミルク 』

 

2016年8月21日 広島アニメーションフェスティバル フレームインにて

 

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5つのパラレルワールド(5 Parallel Worlds)最後の挨拶草稿

本日は遠くから来ていただきありがとうございました。木村文彦さんと私コヤマエイジの共同主催で音と映像を絡めたイベントをやりたいと言うことで細野ビル、ZEROGAUGE、島之内教会に続いて今回で第4弾となりました。・白い壁で映像の写せる程々の大きさの場所という条件を満たすところ探すのは意外と難しく今回はホームから少し離れた伊丹アイフォニックホールということになりました。
古くは1920年代30年代パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、エリック・サティー、ディアギレフ率いるバレエ・リュスの共演した「パラード」と云うバレエとか、バウハウスのオスカーシュレンマーの人形バレエの映像を見たときは視覚芸術と音楽とダンスの融合表現に随分と衝撃を受け憧れました。未来の総合芸術を予感させるように思われたからです。しかしそれらは予め構成されて演じられたものですが、我々が今やろうとしているのは即興による音と映像とダンスのライブです。私自身としては映像がBGMでもなくバックダンサーでもなく単なる背景でもない次元を目指すことが夢でした。実際映像は音の背景にある存在の薄いものと思われがちですが、そんな時代は終わったように思います。映像は予想以上に饒舌です。大人しく背景に甘んじてはいません。しかし音と映像とダンスがその関係性の中で即興を演じるとは言っても実際には壁に映された映像を見ながら演奏することや踊ることが簡単なことではありません。
何故このようなことに拘るようになったかというと、一旦出来上がった映像作品には即興性もしくはライブ性がありません。いつも間違いなく上映されますが、何度か写していると変化が無い事に物足りなさを感じてきます。ライブで映像を作ることが40年前から憧れでありました。当時8mmフィルムを使ったり、スライド映写機のインクを使ったりしていくつかの即興的表現にチャレンジしましたが、光量が少なく、操作性が悪く6畳一間の部屋で写すのが精一杯の状況でした。時代とともにデジタルの波が押し寄せ、システムも大きく変わり、いろんなことが出来るようになりました。私が今使っているのは書画カメラという学校の先生がサンプルを見せるために使うカメラです。書画カメラでリアルタイムで写したものをプロジェクターで投影するわけです。カメラの当たる世界は両面で30cm*90cmほどの細長い平面、それが操作される全ての世界です。この世界は恐ろしいほど自由です。何をやっても良いのですが、とても怖い空間でもあります。衆人の視線に晒されるという意味では舞台に上がったパフォーマーとなんら変わりません。ただ自分のやっていることを自らの目で確認できることがダンサーとは違います。今目の前で起きていることの全体を俯瞰できるというのが視覚操作のメリットです。全体の中でビジュアリストがバランスをとるポジションを持ちうるとも言えます。

 

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ライブ撮影におけるカメラワークについて
・主観的カメラはリスキーで面白い。嘘をつく可能性があることが面白い。
・手持ちカメラによる、対象を追いかける視線は現実の視覚に近い。狩をするものの目線に近い。

 

正直なところ純粋な即興映像は不可能だと思います。リアルタイムで10倍の速さで動作できれば完全な即興も可能かもしれませんが。正確には映像にも即興性はあると言い換えなければなりません。映像は映像なりの戦いをするしかありません。そんなわけで時間短縮させるために予め用意したものを仕込むようになりました。前回の形成されたイメージは終わったこととして関節形に連結し記憶する。保持されたものがいくつかできるとそれらをさらに新しいイメージに連結して行きます謂わば貯蓄型増植型の即興です。いかに即興と言へども演者はそれぞれの頭の中に幾つもの抽斗を用意しなければいけませんが、私の場合はその抽斗を物質化して目に見える形で用意しているのに過ぎません。
 2本の手を使って表現できるものは決して少なくはないのですが、どうしても限定された動きの範囲ということになります。その動きはすでに色々な人形劇の中で極められていると思います。しかし人形劇をやろうというわけではありません。今は人の形をしたものが必要ではありません。人形にはキャラクターというものが発生し内容を限定します。私の場合はあくまでアブストラクトな表現として展開したいのです。抽象的な形を手動で動かすわけです。結果として抽象人形劇とも云うべき状況になってきます。材質が持っている柔軟性と動きを補助するための関節構造によって擬似生物的な動きを獲得します。関節のあるものを人は生物的なものと認識するようです。ただ、それは顔があるわけでもなく特定の体の一部が表現されるわけでもなく、ほとんど人格化の過程ともいうべき未分化なものです。概念の成立する手前のカオス状態を差し出すことで、そこに音とダンスが絡んだ時励起状態から結晶化作用が働き観客に何らかのイメージを持たせるようになるわけです。抽象的なものと具体的な個物、個体の中間の表現形をやろうというわけです。それは抽象でもあり人形劇のようでもあるということです.
 意図とは関係なくどうしても入ってくる手についてはどうするか。16の関節を持った手が入ることについて。おのずと新しい意味が生まれます。すでに手は役者です。独裁者のような振る舞い。手はこれまでの歴史の中でどんなことをしてきたか。人間を進化的に成長させた要因として手は重要です。それの仕草を一気になぞってみること。切る、弾く、つまむ、引っ張る、ひねる、ちぎる、握る、殴る、ふる、撫でる、・・・性的な身振りと仕草を連想させます。暴力的な短絡性につながります。さらに両手が現れた時対立する二者であったり、愛し合う男女にもなる。
 

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カオスと乱流の発生 色々な世界が交錯する実験場 リズムの結果として形を捉える

 

 

 

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 ダンサーと森羅万象の関係。それらが意味されるものが図らずも生まれてくる。造物主のようにあるいは黒幕のようにも振舞うこともできます。アニミズム的な空間を作りうること。アニマとは命を吹き込むこと。存在するもの全てに命が吹き込まれているわけです。アニミズム的空間は恐ろしげな世界でもありますが、最も人が疎外されていない世界であるとも言えます。そのような世界では物質が単なる物体ではなく精神的存在感を持っているからです。執拗な細密描写に聖アントニウスの誘惑、降魔のような関係性イメージの森を作ることです。同時に神話的世界にもなりうるということです。神話は人類が初めて意識を持ち始めた時に世界についてイメージした物語である以上バカにならないものです。神話の世界の手前にいる。まさに野生の思考そのものです。ただし戦争の惨禍とアニミズムが関連した時、これほど耐え難いイメージはありません。魔術的リアリズムが生まれる。つまるところアニミズムには二つの可能性があると思います。一つは現代の空疎さを埋める豊かな世界、もう一つは暑苦しく襲いかかってきて逃げ出したくなる悪夢のような世界です。視覚の悦楽は悲惨との背中合わせであり、生理的に仕組まれた罠でもあります。
 祭儀性について。太古の昔から火を囲んで歌い踊ったことでしょう。叩く事、振ることが魂を呼び起こすことは太古の感性に通ずるものではないか。特に打楽器や弦楽器や笛はこの際よく似合うことでしょう。声もまた深い井戸に呼びかけるように太古の時代へ呼びかけるのです。

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